社長のブログ

文化ってなんだろ? 太鼓持(幇間)と三国


先日縁があって太鼓持あらいさんのよもやま話を聞きに三国の魚志楼さんへ出かけて来ました。



「魚志楼」さんは、明治時代から大正期にはお茶屋として使われた木造建物を改造して今は料理屋として使っていますが、改造といっても玄関と厨房を触られただけで、特に現在風の設備が目に付くところはなく、徹底して昭和初期の作りをそのまま使っているのには驚きました。



数寄屋造りの軒先から望む庭も当時のまま?の風情で京都の町屋の庭と同じように、狭い間口の奥に広さを感じさせる中庭が配置されています。竹の桟で意匠された窓枠や苔の上の庭石が趣を醸し出しています。(石灯篭は雰囲気に合わないような気がしますが、新しいものかもしれません。)



店の中にデ~ンと鎮座しているタヌキの置物。招き猫は良く見かけますが、こういうタヌキは滅多にお目にかかれませんが、花街隆盛の頃、タヌキ女郎に騙されなすんな、といった風刺に掛けて作られたのかも知れませんね。

話は横のそれましたが、ここで女将と太鼓持のあらいさんが登場。横の太鼓をドンと叩いて、本日の「三国船端談義」が始まりました。





さて、まずは太鼓持のあらいさん、終始笑顔で身振り手振りを交えながら、噺家の落語のように次から次へ弁舌滑らかに話しまくり、笑いまくり、上手に場が和んでいきます。
太鼓持とは芸者や芸妓を交えたお座敷遊びの際に、時には芸者と踊り、唄も謡い、とにかくお客である旦那衆を盛り立て、盛り上げ役になる男芸者の俗称で、正式には幇間という江戸時代にできた歴とした?職業ですが、この日は幇間という職業技ではなくて、昔の良き時代の遊び方を通じて、文化の大切さを語り継ぐようなお座敷講演会でした。




あらいさんの「よもやまばなし」の後の第2部はゲストの寺岡賢一郎さんとの対談コーナーで、昭和33年まで存在した三国の赤線のお店や芸者さんのお話でした。
この方ナント84歳とかでこの笑顔、さすがに三国の遊郭の歴史と実体験を踏まえた?現実味あふれるお話に私だけではなく男性陣は興味津々、当時のお茶屋の間取図を指差しながら、あらいさんが身振り手振りを交えて、当時のお店の仕切り役のやり手ババーの呼び込みまで再現してもらって、楽しませていただきました。


借金のかたに売られてきた遊女の生活や、遊郭から逃げ出されないような過酷な取り巻きがあったこともお話がありしんみり来そうな雰囲気もありましたが、今時のセクハラとか女性蔑視的風潮は完全にどこ吹く風といった感じで、現実にあった三国の歴史をひしひしと感じた2時間でした。
私たちのグループは6人で、不謹慎ながらお酒をグビグビ傾けながら一番前で聞いていたわけですが、周りを見回すと浴衣を着た若いグループや、ちょっとこの道にうるさい郷土歴史家的な?旦那衆、あらいさんの追っかけ?見たいな女性陣など種々雑多な人種が集まっていました。

最近は歴史と文化の街つくりとか勝手に言っていますが、
今回の講演会、単に考えれば、語弊があるかもしれないけど下種な下ネタを交えて、昔の金持ちが勝手に遊んだ遊郭の一角で昔の旦那衆の遊び方を検証するだけの講演でしたが、「文化ってなんだろう」って考えたとき、立派な音楽ホールや図書館を作ったり、高い講演料を払って講演会を開いたりすることではなく、題材に関係なく、こうした粋なお話ができる俎上があることと、その場所が残っていること(名残を大切に残していること)、そしてこういう話を大勢の人が聞きに来て、人それぞれが咀嚼して勝手に?楽しんでいること、こういうのがホントの文化なんだろうな、って感じました。