社長のブログ

富士山を堪能してきました。(付録:1977年のハワイ旅行)

「いつもどこかへ出かけてますね」なんて言われるようですが、10月は色々な団体や集まりでの旅行も多く、これでもひとつキャンセルしたくらいなのですが、行くからには天気も良くて楽しくてためになる旅行が一番ですね。
とか、いいわけを最初に言ってから、今回出かけた先は富士山周辺。
宿泊は「富士山をバックに四季を彩る2万坪の大庭園と心安らぐ和の情感に癒されながら至福の時が満喫できる富士五湖最大の温泉リゾート」が売りのホテル鐘山苑、というところ。マンションのオーナー会なので、おじいちゃんおばあちゃんに混じってのバス旅行でした。

朝の7時に出発して、名古屋経由で富士のふもとに向かいますが、ヤッパシ遠い!。延々5時間バスに揺られてようやく着いたのが、久能山東照宮。ご存知徳川家康を祀ってある色使いがコテコテの神社。東照宮って言うと日光のほうが有名みたいですが、バスガイドさんの話によると、徳川2代将軍の時に江戸城がある関東平野を見渡せる所に遺灰を分けて東照宮を作るべきだという言う人が現れて、日光にも東照宮ができたとのこと。家康のお墓の前で説明していたガイドによると「家康は火葬されずにこの地にそのまま眠っていて分骨などしていない。こっちが正真正銘の本物の東照宮です。」と言っていました。世が世なら将軍様の菩提所ですから、近づくことすらできなかったものだと思います。それにしても今はロープウェイでしたが、私はてっきり麓から頂上に向け上っていくものだと思っていましたが、実は車で登れて富士山も望める日本平から、久能山へは少し下がり気味で下っていくのには少々勘が外れました。


その後食事を取って、どんどん富士山に近づきますが、少々j雲が出ていた天気が徐々に回復、麓の花園など見学する頃はほとんど雲の無い富士山が目の前に見えていました。夕方には河口湖のそばのホテル鐘山苑に到着。温泉に入って宴会、2次会へ行くことも無くおとなしく就寝。

早寝早起きは3文の得、って最近聞かなくなった懐かしい文句ですが、6時前に起きて布団の横の障子を開けて取った写真が ← これ
富士山の北側に位置する場所からの朝日に照らされた富士山です。雲ひとつない絶品の富士山でした。
これだけの自然遺産が世界遺産に入らないのはどう考えても不思議なのですが、それだけゴミなどが多いと言うことなのでしょうね。(携帯電話のカメラでも良く撮れてます。)



ホテルを出て向かったのが河口湖。富士山の見えない駐車場に降ろされ「あれ、富士山はどこに見えるの?」と聞くと、待ってましたとばかり横からおっさんが「ボートで湖面に出ればすぐに見えますよ。一人1000円でいつもより長いコース走りますよ!」てな調子。「最初から富士山が見える駐車場に止めんかいな」と朝からほざくのも何だし、モーターボートも乗ったことないし、みんなで乗って河口湖の湖水の上から撮った富士山がこれ。天気は快晴だったし、1000円仕方ないか…。

河口湖の駐車場から出ようとすると集まってきたのが、この集団。70年代のアメリカンフルサイズ集団です。ショックを長くしてコンプレッサーで車体を上下したりして遊んでいる昔のオールウェズかぶれ?で、ダイアナなんて曲が浮かんでくる風景ですね。


その中でも私にとって思い出に残るのが一番手前の白い車、フォードのリンカーンコンチネンタルマークⅣですね。リトラクタブルといってヘッドランプが格納型で、何しろデカクテかっこいいアメ車ですが、この車との出会いは1977年の夏のオアフ島。ろくに金も持たずに2週間のハワイ旅行に来た私を含め4人の貧乏学生は、最初の2,3日は景気よく遊んでいましたが、1週間も経つと残り数万円、食事代を考えるともう金のかかる遊びはできなくなり、ワイキキビーチでボケーッとしている毎日でしたが、それにも飽きるとカラカウア通りから一つ入ったストリートのビデオ屋さんの常連になっていました。
話は長くなりますが、このビデオ屋さんの軒先ではビデオが映されていて、丸椅子に座ってタダで何時間でも見られるので、ワイキキが暑すぎるとここにきてビデオ鑑賞と決め込んでいたのです。3日も経つとその店のおばさんとも仲良くなり、いつしかあんた達はいつまでハワイにいるのかと聞かれ、まだ4日ほど滞在すると答えると、明日家でバーベキューをするから遊びに来いと言われ、ついでにゴルフもするがどうかと言われ、ホイホイついて行く事になったのです。ゴルフは松浦が数回したことがあると言うので、私はクラブも握ったことが無かったのですが、参加することとなりました。
そして翌朝、私たちが泊まっている安ホテルの玄関にデ~~ンと鎮座していたのが、忘れもしないこの真っ白のフォードリンカーンコンチネンタルマークⅣのピカピカの新車だったのです。こっちは貧乏学生ですから何も取られるものは無いのですが、お世辞にも立派とは言えないビデオ屋のおばさんには似つかない車でしたが、ご主人はアメリカンアーミーの軍人さんとのこと。かっこいい軍人さんの運転でフワフワの後部座席でゴルフに出かけ、帰りにはその方の家でバーベキューを堪能し、その帰り道またこの車に乗せてもらいました。
海に向かって広がるパイナップル畑の中をまっすぐ走るオアフ島のハレイワからワイキキに向かう片側6車線のルート①。そこで流れてきた曲が寺内タケシが奏でる加山雄三の「海その愛」。ふと後ろを振り向くと海の中に沈みかける夕日。…本当にこのときばかりは景色に感動しましたね。そういう思い出のある車でした。
あれから32年、当時 円は190円前後でしたが、それでも円高と言うことで喜んでいたのですが、当時の他の3人は、山形労働金庫でまじめに働いている「ブースカ」こと佐藤君。横浜に住んでいてJR関係の電気設備工事の会社を営みドラゴンズのチケットを送ってきてくれる松浦君。福岡博多で税理士事務所を開業している当時「博多のキャバレー王子」と呼ばれた元山君。みんな元気で、2年に一度は同窓会を開いて今でも交流している仲間です。この人たちとの交流は深くて長いのでまた別のブログで書き込むこととします。


話は元の戻り、旅行は静岡からNHKの大河ドラマに便乗して血気盛んな?甲府に入り、まず見たのが武田神社。「人は石垣、人は城」の言葉とおり城を作らなかった信玄ですが、生活の拠点としていたこの場所はしっかりとお堀も張り巡らしてありました。
場所は甲府市内から車で5分ほど坂を上ったところですが、かなりの観光客が集まっていて大盛況でした。福井市内にはこれより立派なお堀もあるのですが、城内があれでは観光客はくるわけがないですな。


ここでせっかく甲府まで来たのなら、と言うことで私は団体と離れて得意の?単独行動で、しっかりと息子たちが住むマンションの鍵を握って東京へ向かいました。 ホントは黙って行ってしまおうと思ったのですが、二人とも不在だと何のために行ったか値打ちが無いので前日に連絡は済ませておきました。連絡したにもかかわらず兄のほうは用事があるとのことで弟と一緒に食事に出かけ、学校のことや友人のことなど聞いたりして親父振りを発揮しましたが、翌朝は二人とも授業だと言うことで、一緒にマンションを出て今話題の丸の内周辺を探索してきました。

ここは新丸ビルの5階、レストランのフロアですが、一見するとどうも福井の駅東にできた「アオッサ」の3階の雰囲気とよく似ていて、丸ビルは1軒ごとに店舗は独立していますが、街角の食堂街をそのままビルの中に入れたつくりでした。
雰囲気は良く似ているのですが、全く違うのが客の数。店からあふれて人が並んでいる店も多く、よく似たコンセプトで作ったのでしょうが、東京では成り立っても福井ではどうなのでしょう?。やっぱり官主導の再開発では駄目なのでしょうかね。


最後にNHKの番組「そのとき時代が変わった」の司会をする松平アナのマネをして閉めたいと思います。
「それでは皆さん、今夜も最後までお付き合いしていただきありがとうございました。次回のブログも、是非最後までお付き合いいただきますようお願いします。それではおやすみなさい。m(._.)m」