社長のブログ

企業の社会的責任と新人類

少しまじめな話しになりますが、私は今、丸岡ロータリークラブで会員を増やす役割の「会員増強委員長」を務めさせてもらっています。また、来年から始まる福井の県民プロ野球球団の設立準備室の副代表(副代表は代表以外のお世話している人全員についている肩書きなのですが)として、新しくできる球団会社の出資金集めに苦労しています。
実は、この二つの役職に共通しているのは、いろいろな企業や職場の経営者や責任者に「ボランティアとして動き、そしてお金も出してもらえないか」と言って勧誘してくることなのです。
しかしながら、いろいろな人に会って説明しても総じて「今は経営が厳しいから」とか「そんな時間が無い」、更にひどいと「なんでそんなことしないと駄目なんや」という返答です。

15年ほど前、バブルが弾けたといえ、まだ企業の景気が良かった頃「フィロソフィー メセナ」とか「企業メセナ」「企業の行う社会貢献活動)という言葉が世の中に紹介され始めました。そして、今は企業の社会的責任(Corporate Social Responsibility=CSR)という言葉に非常に関心が高まってきたように思えます。
食肉偽装から始まった白い恋人、赤福、船場吉兆などの一連の問題は、企業の倫理観の問題でCSR以前の問題なのですが、CSRの欠如から発生した究極の悪事ではないかと思っています。
稲盛和夫氏が創立した京セラグループのCSRの中には「企業も社会を構成する一市民であるとの視点に立って、地域や社会の抱える課題に積極的な関心を持ち、その解決に努めるとともに、企業としての特色を活かしたメセナ活動を通じて、社会の経済的、文化的発展に積極的に貢献することをめざしています。」と明記されています。こんな会社ばっかりだったら、もっと日本は住みやすくて、明るい社会になっていて、意識の高いメンバーがロータリーにも入ってくるし、県民球団の出資金もすぐに集まるのにと痛感しています。
それでは少しでも京セラのような成熟した会社が増えるにはどうなればいいのかも考えて見ました。

バブルが弾けてIT産業が時代の寵児のようにもてはやされ、「稼ぐだけ稼いで何が悪い」と究極論まで語りだすと、確かに企業は利益を追求して儲けるのが目的なのですが、それでは人間は働くだけ働いて給料を稼ぐだけで良いのかという問題に行き着きます。そういう企業は「俺は他人に迷惑を掛けていないし、自分だけがよければそれで関係ないじゃん」と平気で言ってのける若者と変わらないような気がします。
新人類という言葉も最近死語になりつつ言葉ですが、今50歳の私は小中学、高校、大学を戦前生まれの先生に教えていただきました。戦後生まれの先生とどこが教え方が違うのか明確にはわかりませんが、戦前生まれの先生は人の命にかかわることや、人に嘘をつくこと、人の気持ちを踏みにじるような行為には、鉄拳が飛んでくるような徹底的な教育をしていました。また、勉強はできなくても、人に優しくすることや、目上の人を敬い、父母に感謝する教育を受けてきたつもりです。
それが今の学校ではどうなのでしょう。10年ほど前の話ですが、息子の中学校に授業参観で行ったとき、授業中の先生の前で堂々として机に顔をうずめて寝ている生徒や、黒板に背を向けてニヤニヤしている生徒をたくさん見かけました。
すぐに他の先生やPTAの役員に方に、こらは一体どうなっているのかを質問をすると、
「何言ってるの、これでも随分マシになった」
「あの生徒達に授業を受けさせようとすると、どれだけ時間が会っても足りないの、まじめに授業を聞いている生徒に迷惑ならなければそれでほっておくのが一番」という返事でした。
寝ている生徒も後ろを向いてニヤニヤしている生徒も、少なくとも人に迷惑をかけてはいけない、という教育?だけをしっかり受けたお陰で、まさに「俺は他人に迷惑を掛けていないし、自分だけがよければそれで関係ないじゃん」のまま、社会に送り出されていったことだと思います。(こんなことから私は新人類とは「戦後生まれの先生に教育を受けた若者」と定義付けています。)

このような教育をしている限り、成熟した会社もできなければ、安心した社会もできるはずはないでしょう。原因は教育にあるのではないかと私は思っています。屈折した教育が最近起こるいろんな変な事件、信じられない事件の根本的な原因であり、企業の社会的責任などどうでもいいと考える経営者が多くなっている遠因でもあると考えています。
やはり大事なのは「お陰様で」という人としての倫理観なのではないでしょうか。でも、そういう人がもっともっと増えていってもらいたいと思う毎日です。

あまり急にまじめな話をしたので、明日は大雪かもしれません。どうか暖かくしてお休みください。