社長のブログ

火砕流と土石流 

わが町丸岡にある日本100名城の一つ、丸岡城は、柴田勝家の甥柴田勝豊のより築城されましたが、戦国の世を経て、江戸幕府が安定すると、福井藩から独立し、丸岡藩本多家の居城となりました。
しかし本多家4代目、重益の時代に治世をめぐって家臣の権力争いが起き、幕府の裁定で改易(いわゆる左遷)され、新たに城主になった有馬清純が糸魚川から転封してきました。この有馬家はの藩主でした。
江戸幕府は大名を封建的に支配するため、改易、移封などを多く行なってきましたが、丸岡に来た有馬清純は糸魚川には3年だけ居ただけで、それ以前は日向(宮崎)延岡藩延岡城主の3代目だったのです。この有馬清純も延岡で事件を起して左遷させられ、糸魚川でしばらく転勤先が決まるまで一時赴任していたような状況だったようですが、江戸時代の大名も幕府にはそれだけ権力があったということがわかります。
話は戻りますが、延岡藩初代藩主有馬直純は、戦国時代は肥後(熊本)島原藩から転封してきた大名で、肥後有馬家の出身が現在の島原半島の南にある南島原にあることから、この史実に基づいて丸岡ロータリークラブと島原南ロータリークラブが20年前に姉妹クラブとなりました。
今回はその姉妹友好クラブの提携更新のために、私も島原市に行って来ました。今回2度目の訪問でしたが、前回5年前には南島原へ行ったため、島原市へ行くのは今回が初めてでした。
島原といえば、雲仙普賢岳、普賢岳といえば平成3年の大爆発での災害を思い出しますが、今回は火砕流で焼けてしまった学校跡や、土石流で埋まってしまった住宅を見てきました。これらの被災建物は災害を記録、記憶させるために保存してあるもので、火砕流土石流のあった一帯は、大掛かりな土木工事で新しい道路や、堤防が出来上がっており、かさ上げした宅地には新しい住宅も建ち並んでいました。

今回はカメラを持っていかなかったんで、携帯のカメラで撮った普賢岳(左の山)ですが、海沿いからいきなり切り立った火山で、のんびりした風景のようですが、この山麓はまだ草木も生えない大きな土石流の流れた跡が、災害の大きさを物語っていました。


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